繁岡ケンイチ 繁岡ケンイチ紹介文 繁岡ケンイチ(繁岡鑒一)
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新派演出家の乾 譲氏が日本演劇協会月報に掲載した繁岡ケンイチです。
 明治28年9月19日東京で生まれ、大正11年3月東京美術学校(現東京芸大)の日本画科卒業。鏑木清方、小村雪岱の流れを汲む最後の舞台美術家で戦前の新派の舞台を数多く手がけ、情緒豊かな画調で芝居を盛り立てた。特に泉鏡花の信望厚く、鏡花作品を一手に引き受けた感がある。

 戦後も活躍しているが、どういう訳か昭和二十四年からプッツリと新派の上演記録から繁岡さんの名前が消えている。ずっとあとでわかったのだか、当時の新派の担当者が何かの手違い(多分、作家の筆の遅れだろう)で台本を渡さないで舞台美術を依頼したのがもとでトラブルが生じ、以来繁岡さんは芝居の世界から遠のいたという。真相はさておき、その繁岡さんを三十年ぶりに芝居の世界に担ぎ出したのは私だった。

 かねて、鏡花作品を古い人の道具帳で演出してみたいと思った私の願いが、昭和53年3月新橋演舞場新派公演の「日本橋」で叶えられた。主演の坂東玉三郎さんに繁岡さんのことを話したら、大いに乗ってくれたので私は勇んで繁岡さんに会いに行った。銀座の喫茶店で初めてお会いした当座は、口振りが妙に慎重で警戒心があらわだった。でも話しているうちにすっかり打ち解けて、当方の依頼を快諾してくれた。

仕事の話が一段落すると、初対面の私に昔話をしてくれた。「日本橋」の一石橋の場で橋の欄干の透かし彫りが鏑木清方に褒められてうれしかったこと。喜多村緑郎の生理学教室の芝居が身震いするほど良かったこと。番町の先生(泉鏡花のこと)宅で打合せしている時、庭かどこかの木でカラスが啼いたら泉先生キッとなり、家人にカラスを追い払うよう語気強く命じたこと。キッとなった時、泉先生の異常とも思える眼の鋭さにぞおっとしたこと、などなど話は尽きず、気がついたら外は暗くなっていた。

 舞台稽古にも来てくれた。舞台を見ながら、芝居はいいですね、を連発、私の芝居の虫を起こしたりして、あんたは悪い人ですよ。と私に言って、さも楽しそうに笑った繁岡さんを今でも覚えている。
 初日があいてからも5日おき位に新橋演舞場に来て、その都度感じた事を克明に書いた葉書を頂いた。文面を見ながら、この方は根っからの芝居好きなんだなと思った。

 それにしても、繁岡さんがずっと舞台の仕事をしていたら、きっと素晴らしい仕事をした事だろう。三十年の空白は、新派にとっても大きな損失だったし、ご本人も随分寂しい思いをした事だろう。
 昭和62年2月に新派百年記念公演で「日本橋」を上演した時も、ひざ掛け持参で舞台稽古に来てくれた。私を見ると大きな手で私の手を握り締めて大変喜んでくれた。今となっては、百年記念という大きなイベント公演で繁岡さんの好きな日本橋を繁岡さんの道具帳で華々しく上演できたことをせめてものなぐさめとするしかない。
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